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足元にみつけた物語 vol.2

手縫いから伝えたい思い

和裁士 熊谷フサ子(くまがいふさこ)さん

はじまり~お稽古風景、先生の様子、縫うことへの記憶

6月の真ん中、土曜日の昼下がり。泊高橋のバス停でバスを降りて、交差点をめざして歩く。6月とはいえ梅雨も明けて晴れ渡った空の下、歩道橋を降りて崇元寺通りから一本裏道に入る。少し歩いて熊谷和・琉裁きもの専門学院が見えたころ、立ち止まって汗を拭き心を整えてから扉を開ける。「こんにちは」と奥に向かって声をかけると、先日初めて会ったばかりの熊谷フサ子先生が、中から顔を出して招き入れてくれた。

畳間の室内にそーっと入る。近くに座っている女性が一瞬振り返って会釈をしてくれた。少し緊張しながら辺りを見渡す。そんなわたしを余所に、熊谷先生は一人一人の手元から視線は外さないまま、机を挟んで向かい合って座る女性たちの間をゆっくりと歩いて回る。そしてひとりの女性の後ろで立ち止まると声をかけた。「すぐ縫いましょう」「先生、次の作業に進みたくて。家で後はゆっくりやろうと思って・・・」「違うの、今やりましょう。後でゆっくりはできない」。ふたりのそのやりとりに、それまで静かだった部屋のなかに笑いがこぼれる。机に広げた生地を眺めながら、数日前に熊谷先生から聞いたお話を思い出す。和服は糸をほどくと反物に戻るのでリメイクもできるということ、沖縄の琉服は生地もあるままで作っているので直しはきかないけれど、袖口が広く風通しがよいこともあり沖縄の気候に合っているのだと教えてもらった。黒板を正面に机が3つ並ぶ畳間で、30代から50代ぐらいと思われる6人の女性たちがお出かけ用の胴衣を縫っているところだった。

その日は3時間のお稽古で、わたしが室内に入るころにはすでにみなさんは手を動かしていた。縫い物を最後に教わった記憶は遡ると学生時代で止まる。幼いころは祖母が大切そうに箪笥に着物を何着もしまっていたこと、服や靴下が破れると大きな裁縫箱を出してきて手縫いで直してくれたこと。着付けの先生の資格を持っていた母が、着物を着て幼い私と写真に収まっていた若かりしころの姿や、わたしと弟の洋服を作ってくれたことが次々に思い出された。かなり幼かったこともありそれまで気にも留めていなかったが、机に並ぶ物差しや布に印を付けるチャコ、まち針、裁ちばさみを見つめるうちにその記憶が蘇った。どれも特別ではなく、実家にも祖母の家にもあった見慣れた道具だった。

学院を立ち上げるまで

3日前のわたしはもっと緊張していた。向かい合って座った熊谷先生は初めて会ったわたしに生い立ちから丁寧にそして穏やかな口調で話し始めた。熊谷先生は糸満の旧・高嶺村真栄里で1943年に生まれた。数日前に見た熊谷和・琉裁きもの専門学院のHPには、生まれ故郷の真栄里の綱引の写真がTOPに飾られていた。おばあちゃんやお母さんに聞かされてきたであろう戦時中のこと、進学はせずに家族に相談なしで集団就職の季節工募集の申し込みをして上京したことを記憶を辿りながら話してくれる。

高校を卒業したばかりの10代で思い切った決断をした熊谷先生の強さと、家族のうち男性は全員戦争で亡くなったなかでそうせざるを得なかった環境と、当時の沖縄の状況を先生の言葉をひとつひとつ頭のなかで並べながら想像を巡らせる。東京ではジュース工場で早朝の炊事係として働きながら、昼間は英文タイプの学校へ通って修了後はすぐに就職先を探した。沖縄から上京して日本文化へ憧れたこと、お茶やお花を習うなかで先生たちから「大学だけがいいのではない」と言われたこともあり、大学へは行かずに和裁学校へ通ったこと。住み込みで朝から晩まで働き、アルバイトした話。麻雀クラブのお茶入れ、クリスマスはケーキ屋さん、早朝の丸ビルの掃除で東京が見えたという言葉の響き。生まれた時代が違うと言えども、熊谷先生がその若さで見てきたものや経験したことがあまりにも違うことに、緊張よりも興味のほうがまさった。

東京での住み込みを6年続けてお母さんが心配しているからと沖縄へ戻ってから、教室探しをして学院を立ち上げたことを先生は感慨深い様子でもなければ誇らしそうに話すでもなく、淡々と順を追って足跡を辿る。その様子を見ているうちに、時代の流れとともに着物の需要の移り変わりも見てきた熊谷先生にとって、手縫いを続けてきたことは特別ではなくて変わらぬ日常だったのだと思った。職場で沖縄の伝統芸能に携わっていることもあり、着物や琉装を目にする機会が日常になっているとはいえ、「和服」「琉服」という言葉に無意識に構えてしまっている自分に気づいてはいた。けれども熊谷先生の生い立ちからさかのぼってお話を聞いたり、学院の記念誌や昔の写真を見せてもらったりするうちに敷居を高くしてしまっているのは、他ならぬわたし自身だったことに途中で気づいた。

和裁と琉裁の違いのまえに、熊谷先生が時折口にする「運針(うんしん)」という言葉の意味がわからずに聞いていた。漢字はわかっていたので針運びなのだろうと思ったが、またすぐに難しく考えようとする方へ引っ張られそうになり、先生に尋ねる。「運針は針を運ぶ仕草のことで、指貫を使って横方向へ縫い進める仕草は他国にはない日本独自の縫いの技法である」と学院の入り口の壁に貼られているのを見つけた。熊谷先生は運針のメカニズムとして、その技法を自転車に乗ることに例えて話してくれた。針が自転車として自転車に乗ったまま静止していると、ふらふらして転んでしまうが、走ること(縫い進めること)によって針が安定するのだという。できないから乗らないではなく、転びながらも走ることでいつの間にか楽しく乗れるようになるとほほ笑んだ。

和裁を始めたのは22歳で、26歳で学院を設立して50年やってきたが、辛いことや大変だったことはなくみんなに助けられてやってこれたという。和裁から入った熊谷先生が琉裁の研究を始めたのは1979年、学院の設立から10年後のことだったという。和服と琉服ふたつはまったく逆といい、和服は昔からの計算された構図でパーフェクトであり、長さと生地の使い方は一反ですべて計算されているのでリメイクできるが、沖縄の琉服は生地の使い方も直しがきかないためリメイクはできず、実用性よりも着て楽しむことや心を豊かにすることがメインだと教えてくれた。独自で王衣裳の研究も続けている。資料にはない部分を追及・探求したいと現在仕立てをしている衣裳を広げた。

自分の文化をみつめること

作業部屋である畳間の部屋のなかに座る熊谷先生は、さっきよりももっと穏やかな表情になった。ふだんここで過ごすことが多いからなのかなと思っていると、「急激に情報がかなり氾濫して趣味が多くなり誰もが身近な物を忘れている。家庭でゆっくり話す時間がなくなっているのかな」と思い出したように話し始めた。

コロナで外に出られない時期に片付けをしたり、急ぎの仕事がない時間に自分の着物をすべて改めて見たゆとりがあったことがよかったと振り返る。家庭のなかから自分の文化を大切にする必要があること、極端かもしれないがめんどくさいと思ったら人間終わりと思うようにしているという。めんどくさいところに充実感があり、やりがいがある。だからそれがあたりまえになるといいですねと普段から話しているという。忙しさにかまけてめんどくさいと思うことが増えつつある自分を省みて恥ずかしくなり、一瞬先生と視線が合わせられなくなる。遅くても21時に寝て2時には起きて、それから2時間はゆっくりしながらお星さまを見てお月さんを見る。お月さんで旧暦がいつかなってマッチングさせるのも楽しい」と笑顔になった。

おわり~手縫いから伝えたい思い

3日前の熊谷先生のお話と表情を思い出しながらお稽古を見学して2時間が過ぎたころ、着物の仕立てを依頼するため女性のお客さんがふたり訪ねてきた。「子どもたちに着物を作ってあげられなかったので、孫娘のために」というお話だった。何年も前から熊谷先生にお願いしたいと思っていて、やっとかなうというお話を隣で聞きながら、ふたりが反物を広げる。

できあがった着物を学生生活の終わりに着るお孫さんはどんな気持ちになるだろう、いまここにいるおばあさんとお母さんはどんな思いで見つめるのだろうと思い浮かべる。幸せな景色だなとふと思う。こんな光景を熊谷先生はこれまで幾度となく見てきたに違いない。だからこそ家族のつながりや絆の大切さを、手縫いから伝えたいのかもしれない。熊谷先生のメールアドレスが運針練習(unshin_renshuu)だったことを思い出していると、熊谷先生は仕立て伝票を書きながらこれから始める手縫いのおさらい無料和裁講習会についておふたりに話している。押し付けるでもなくあくまでも自然に伝えるその姿勢は、これまでも変わらなかったのだろうなと思った。

書き終えた伝票を渡してふたりを見送った後、学院の「設立15周年の記念誌」を1冊くれた。朱色のその本をめくりながら、熊谷先生は思い出とともにきょうのお稽古の内容や、この秋に参加するイベントでの企画を話してくれる。20代で始めた和裁を50年以上続けてきて、いまなお学院での指導とともに手縫いの和を広げたいとさまざまな試みをしながら、手を動かし続けている。縫い物で力仕事をしてきたので手がきれいではないのでと言っていたけれど、その日の指導中も、20代から手で覚えてきたリズムで迷いなく針を運ぶ手つきはうつくしかった。

「運針、少しやってみますか?」。時間が足りず居残りできなかったのでお断りしたものの、バス停まで歩く道すがら家にある裾がほどけたままのスカートのことを思い出した。きょう習っていたら、あの服も直せたのにな。針と糸は家にもある。不器用という言い訳をやめて、そろそろちゃんと直してみようか。亡くなった祖母の着物のことや、母がなぜわたしたちの服を自分で作っていたのかも今度実家に帰ったら聞いてみよう。そんなことを思えたのは熊谷先生の手縫いへの静かな情熱を肌で感じながら聞くことができて、手縫いで着物を作る人がいることや仕立てた着物の向こう側の幸せな風景が想像できるようになったからかもしれない。

文、写真 たまきまさみ

【プロフィール】

沖縄県那覇市生まれ。「夕焼けアパート」文章と写真担当。音楽ライターになりたかったのに紆余曲折しまくって、30代半ばから物書きをはじめる。やるせなさ、憂い、葛藤という感情を土台に、沖縄の景色や人々の姿をありのまま綴る。新聞やWEBにて空手、しまことば、芸能など沖縄の文化に関する記事を執筆しながら、個人史・企業の記念誌、地域のことをまとめた冊子など各種冊子の制作を行っております。

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