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手しごと島めぐり

何が正解かわからない時代だけど、誰かが喜んでくれるものを作りたい。

南風原町・桃原織物工房

整経という経糸を整える工程。経糸を本数、長さ、幅など織物の設計通りに均一の張力で巻き取る
桃原織物工房 宮里由美子さん

「慌てたら徳はないよと今でも母には言われます」と笑顔で語る宮里由美子さん。一時は閉めようと考えていた工房を立て直し、知恵と工夫を周囲とシェアしながら未来を見つめる四代目だ。

今のトレンドは 絣よりも淡い色の花織

琉球王国時代、王妃から貧しい農民まで、身分の上下を問わず女性たちは織物をしていた。上流階級では女性のたしなみの一つとして、庶民は自家消費用の布を自作するのだ。王府は税として特に宮古・八重山から厳しく織物の貢納を求めた歴史的経緯もある。

琉球が日本に併合されてからも、各地に織りの技術は残っていた。1913 年(大正2)に沖縄県から本土向けに移出された産物として、砂糖、泡盛、アダン葉帽子に次ぐ生産額を誇ったのが織物だ。王朝時代から受け継がれた技術は、戦前まで沖縄の経済を支えていた。

南風原では1914(大正3)年4月に南風原村立女子補修学校が設立され、広く女性たちが織りを学んだ。地域に伝わる技術をベースに、戦後はハイオ花織など独自の技法も生まれた。特に戦後は琉球絣の一大生産拠点として発展する一方で、クヮンクヮン花織など大ヒット商品も生まれ、現在は琉球絣と南風原花織の両方が伝統的工芸品に指定されている。

そんな南風原で曾祖母の時代から数えて四代目にあたる、桃原織物の宮里由美子さん。「四代目と言っていいのかわからないぐらい、細々とですが」とはにかんだ笑顔を見せながら、こんな話をしてくれた。

「父はぼかしの色づかいが上手な人でした。口数が少なくて多くを語る人ではありませんでしたが、ぼかしは試行錯誤していたみたい。琉球絣の全盛期は国際通りに小さな直営店も持っていたんですよ。絣は高い技術を必要としますが、着物の格としては普段着になってしまうので、今はあまり売れ筋ではなくて……。うちでは淡い色の両面花織の着尺の注文が多くて、年間60反ほどを、ほとんど県外に出荷しています」

色無地感覚で着られる単色の花織の着物は、コーディネートによってセミフォーマルからちょっとしたお出かけまで使え、限られた予算で着こなしの幅が広い着物を求めるニーズをしっかりとらえた商品だと言える。一口に南風原花織と言っても流行があり、20年ほど前まではクヮンクヮン花織(南風原の緯浮花織)が主流だった。

「実は12年前ぐらいに、クヮンクヮン花織が売れなくなった時期がありました。一時はうちも工房を閉めようかと言っていたんですが、取引先の助けもあって何とか立て直し、現在に至っています」

知恵はオープンにシェアする。それが産地・南風原の気風

南風原は、どう効率よく織るかを考えている工房が多いと語る宮里さん。

「それをお互い隠さない。例えばAさんが何か道具の工夫をしたと聞いて、私がAさんに『見せて』というと、ホームセンターで〇〇の金具を買ってきてこうしたらいいよと作り方まで教えてくれるんですよ。うちの工房でも織り子さんが筬通しの金具を工夫して自作したんですが、すごく仕事が楽になりました。この金具を広めたらみんなも仕事が楽になるから、この金具を売ろうかなって思うぐらい(笑)。少しでも効率を良くしたい、そんな向上心が南風原全体にあると思います」

オープンな雰囲気で、反物の生産量は沖縄県内でトップの南風原町。中でも絣会館のある本部(もとぶ)集落は、絣ロードと呼ばれる道があり、集落を散策すればあちらこちらから機織りの音が聞こえてくる。生きた文化として、町の中に織物が根づいている。

とても80代とは思えない身のこなしで糸を手繰る。糊づけ前の大切な工程

母と娘は師弟でもある

宮里さんは20代の頃、ホテルやゴルフ場で働き、家業を継ぐ気は無かったという。

「接客業が長かったんですが、こころが疲れちゃって。もう人と接したくないと仕事を辞めて家でブラブラしている時期がありました。そんな時、父に『検査に行ってきて』と反物を組合に持って行くよう頼まれたんですよ。そしたら検査員が思いのほか厳しくて、『自分が織ったらどんな感じなんだろう』と闘志がわいてきて(笑)。34歳で工芸指導所に通って、花織を習いました。遅いスタートだったので、母には今でも心配をかけています」

母娘二代で仕事をしている現場を見せてもらった。作業のところどころで宮里さんに指示が飛ぶ。この仕事を始めて20年経っても、この道50年の母の目に宮里さんはまだまだひよっ子に映るようで、二人の姿にカメラを向けると「この子はまだ素人だから」という言葉が飛び出す。それでも愛娘が家業を継ぐことになった時のことを照れくさそうに、でも満面の笑みでこう語ってくれた。

「うれしくて、天にものぼる気持ち。うちの子どもたちは誰も継がないねえと思っていたところに、一番やりそうにない子がやると言い出したから」

そんな母からの一番の教えを、宮里さん自身はこう言う。

「『慌てたら徳はないよ、仕事はゆっくり』とよく言われます。私は早く織ろうとして急ぎすぎるので、丁寧にやりなさい、と。私もよく糸を絡めてしまうんですが、父もそうだったみたい。母は丁寧にほぐすタイプ。父もよく『落ち着いて』とたしなめられて、母が直す係をしていたそうです」

糊づけした経糸をピンと張り、ほぐして乾かす糊ばり。糊は強すぎても弱すぎても後の工程に影響する

「一番の喜びは、いい柄ができた時。チンダミが合わなくなると、上手にならないと!と思う」

南風原では何反分かの経糸を一度にかけるため、経糸の準備と仕掛けだけでも相当な力仕事になる。

「いまだに上手にやる自信がありません。整経、糊ばり、経巻きと進める工程のどこかが下手だったら、最終的に織る人が難儀をします。私がやると、いつも機の右側のほうが弱いから、バランスを取るために機の右側におもりをかけたりする。チンダミ(弦楽器のチューニング)が合わなくなると、上手にならないと!と思いますね」

また、色づかいはしっかり計算していても、実際に織り出してみないとわからない部分もあるという。それだけに、イメージ通りの柄ができたときのうれしさはひとしおだ。そんなものづくりの楽しさとは別次元で、着物市場そのものが縮小していることは常に気になっているとも語る。

「着物市場が小さくなっていると言っても、着物業界全体では在庫が山ほどあるとも聞きます。そんな中で新しいものを作り続けるのはエコじゃないなと思うこともある。SDGsというか、産業として持続可能であってほしい。自分も着物を着ないし、これからは着物用の着尺と服地が半々でやっていくのかなとも思います。何が正解かわからない時代ですが、自分が着たいものや、誰かが喜んでくれるものをつくりたいですね」

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